久方ぶりです。

またまた帰ってきました。
何年もご無沙汰していたブログ管理画面ゆえ、この記事を書くページにたどり着くこともままなりません。
恥ずかしながら迷子状態ですね。
で、なぜづログを中断してしまったかというと、やはり迷子になってしまていました。または自家中毒かもしれません。
持論を主張することのみ縛られて、行き詰まってしまっていたのです。

ちょうど2年前、以織の前にふたりの恩人が現れました。
そのおふたりが拙作を世に出してくださいました。
そして、もっと広い目で茶碗を考えよと迷路にいた以織を導いてくれました。

井戸茶碗作者にとって昨年冬に根津美術館で開催された「井戸展」も幸運な出会いでした。
日本に現存する100碗ほどの井戸茶碗のうち7割を超えるほどの井戸を観ることが出来たのです。
そうしたら、以織論なんか一部分でしかないと思い知らされました。

確かに以織が開発した茶碗全体が梅花皮になる井戸釉薬は表現の幅を広げてくれるやもしれません。
古作を離れて観ることの出来る拡大鏡で眺めてみると、以織釉薬のような梅花皮貫入と認められそうな肌にも出会います。
しかしほとんどは所謂「魚子(ナナコ」貫入のようでした。
そうなると、井戸は今では表現できない特殊なものでなくなります。
時間の絵の具の結果と言えることになります。
以織が数年前、吹聴した長石外しの釉薬である必要もありません。
しかし、しかしです。それだと梅花皮が生まれない。
井戸の特徴を放棄しては井戸とは呼べません。
梅花皮が美しさにとって必要かどうかは別として、井戸作者としては外せない要素です。
で、根津の井戸展で得たことは「全体が梅花皮化していなくていい」。
けれど「高台に咲く自然の梅花皮は(多かれ少なかれ)必要」。

なぜこんなことをブログ再開そうそう書いてしまったかというと、
昨年暮れの伊勢屋美術「寿庵」で開いていただいた個展の最中、ひとりの青年が以織に告げるに、
さる高名な陶芸家が曰く「梅花皮はその時の焼きの調子で出たり出なかったりで良い、偶然の仕業だから」。
そこで以織は「では細川井戸をどうとらえるのか」と反論しました。偶然だけに頼って陶芸家と自称するのか。
梅花皮の少ない名碗もご存知の通り存在します。佳き茶碗でありさえすれば梅花皮など無くてもいいのです。
とはいえ、我々は出来ない言い訳を安易にしてはいけません。
よく耳にするのは「昔は有ったけれど、今は材料が手に入らない」という陶芸家のセリフです。
えぇ、その方は昔にも生きていらしたのですか。
自己の怠慢をごまかしてはいけません。
しっかり向き合って、材料が無ければ材料から作れば良いのです。
批判の声が聞こえてきます。「何万年かけて自然が作ったものを個人の時間で作れるものか」。
その通りです。だからこそ新しいものが生まれいずる。
そうして懸命に作りだした多くの新しきものの中から、僅かだけが人口に膾炙され残っていく。
自作がくやしいかな残らなくても、それは致し方ないこと。
以織は限られた能力しか持ち合わせていないので、努力のほか選びようがありません。(もっとも、この程度で努力家と呼べるかどうか)

サイトのリニューアルは以織にはこたえました。cssなんて不向きです。
でも、この文を書いていたら、元気が戻りつつあります。
歳を取ってもイヤな性格は治らないようですね。うーん。

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井戸茶碗陶術遣い

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